越まほろば物語 
鳴鹿は越まほろば物語の舞台

 福井県坂井市丸岡町の鳴鹿地区、ここが「越まほろば物語」の舞台になった場所です。
 奥越から流れ込む九頭竜川が山間から一気に広がるこの地で福井平野に向かって立った時、背後には聖なる白山連峰がそびえ、北に坂井市丸岡町の
六呂瀬古墳群、南に永平寺町の手繰ヶ城山古墳二本松山古墳などを眺めることができます。
 そして今も福井平野一万ヘクタール、県民の水動脈として
鳴鹿大堰が機能しています。 つまり、古墳時代、ここは越の国の稲作を支える重要な水源地であり、古代の王の支配地の拠点であったと思われます。 この九頭竜川右岸を高く見上げると、約200メートルの山頂にある北陸最大規模の「六呂瀬山古墳群」が私たちの「まほろば」なのです。
越(こし)まほろば物語の時代背景
 今からさかのぼること1600年前、大和地方から琵琶湖西北の山並みを越えて日本海に出ると、すべて気候の違った国があります。

このように山を越えると気候、風土文化の違った国となることから、福井県から新潟県までを含めた地方は「
越の国」と呼ばれていました。

 この国の中でも、福井県の九頭竜川の中流域から一気に広がる場所に位置する
鳴鹿大堰付近は、北に、北陸最大の140メートルの六呂瀬山1号墳と3号墳、南に手繰ヶ城山古墳、そして二本松山古墳などの8基の大型前方後円墳があります。
 
このような、大型前方後円墳が数多く集中しているのは、福井、石川、富山、新潟の中でこの地域だけなのです。その中心地が坂井市丸岡町鳴鹿地区であったと思われます。なぜこの鳴鹿地区が中心地となり得たのか。
 それは、ここが稲作の重要な水源地であり、越の王は民を養う為、この地を絶対に統括する必要があったからと考えられます。それ故に王たちの儀式の場でもあり、葬る所でもあった古墳群を支配地が見渡せる山頂に、4世紀末から6世紀中頃まで絶えることなく築かれ続けたのです。そして、5世紀半ばになると継体天皇の母親である振媛(ふりひめ)が登場します。当時、振媛の親は、「越の王」として君臨していたと思われ、六呂瀬山古墳群は振媛の親たちの墓と言われています。この振媛は、日本書紀や上宮記によると応神天皇の血をひく。「彦主人王」(ひこうし)が近江国三尾(滋賀県高島郡)にいる時に、越の三国の坂中井(さかない)にいる振媛が美しい「顔きらきらしくて、甚だうるわしき色ある」という評判を聞いて、使者を遣わして妃に迎えた。この二人の間に生まれたのが男大迹王(おほど)(継体天皇)ですが、やがて彦主人王は亡くなってしまいました。振媛は「ここは故郷から遠くて親類縁者もいません。私一人でどうして男大迹王を養育することができましょうか。親のいる越の国の高向(たかむく)に帰ってお育てします」と言って幼い男大迹王を連れて帰ったそうです。この高向宮は現在の高向神社(丸岡町高田)付近だったと思われ、坂井市丸岡町は継体天皇の母親である、"振媛"の故郷なのです。