久米田神社 くめだじんじゃ(下久米田地区)
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 むかし おおとのおう    たかむくのさと ふりひめ  そだ          ふたり   きょうだい      せいじん
 昔、男大迹王は、高向郷で振媛に育てられて、二人の兄弟とともに成人なされました。
    ころ      ちほう   ごうぞく        うつく    ひめ              おおとのおう        ひと   きさき  よめ
その頃、この地方の豪族にとても美しい姫がありました。男大迹王はその人をお妃(お嫁
             いっぽう みやこ     ぶれつてんのう     よつぎ     おうじ
さん)になさいました。一方、都では、武烈天皇には世継ぎの皇子がありませんでした。
おおむらじおおとものかなむら てんのう  たかむくのさと      おうじんてんのう  ご せ (ごだいめ)    まご  おおとのおう
 大連大伴金村が、天皇に「高向郷には、応神天皇の五世(五代目)の孫の男大迹王が
                  かた    むか                 もう   あ           おおとのおう   みやこ むか
おいでになる。この方をお迎えしてはどうか」と申し上げたので、男大迹王は都に迎えられ
 みかど くらい  つ     けいたいてんのう                   とき きさき(やまとひめ) たかむくのさと とど      おうじ
て帝の位に即かれ継体天皇となられました。この時、妃(倭媛)は高向郷に留まられ皇子
     う                けいたいてんのう  おうじ      う                   き    きさき おうじ  みやこ
をお産みになりました。継体天皇は皇子がお生まれになったことを聞き、妃と皇子を都に
む       おおとものかなむら つか                    かなむら          みやこ  たかむくのさと  ち   つ
迎えようと大伴金村を遣わしました。ところが、金村がはるばる都から高向郷の地に着い
  とき      きさき  さんご   ひ だ     わる        な          あと
た時には、妃は産後の肥立ちが悪くすでに亡くなられた後でした。
     けいたいてんのう  ようりつ  こうせき       おおとものかなむら       くめだじんじゃ    さいじん     まつ
 また、継体天皇の擁立に功績のあった大伴金村を、ここ久米田神社の祭神として祀りま
した。                                            <鳴鹿村史>
         
下久米田神社 下久米田神社の縁起碑