・このエッセイは,福井市在住の鈴木様のご厚意により掲載させていただいております。
・実話に基づいていますが,文中の登場人物はすべて仮名です。
・写真は昭和30年代のものを中心に使用しておりますが,本文との直接の関係は
 ありません。出典は特に明記されているもの以外,主として本校所蔵の写真,
 または『鳴鹿小学校百年史』より引用しています。
【序章】

 昭和30年代は、この大きな出来事から始まりました。昭和30年3月31日、1町5村が合併して丸岡町が誕生しました。この時を以て(旧鳴鹿村)の名称も消滅しました。
 鳴鹿小学校は丸岡町上金屋(かみかなや)地籍にありました。木造造りで、歴史の跡を色濃く残した3つの棟から成り立っていました。真ん中には、天井の高いガッチリ角材で組み上げられた講堂、その左右に二階建ての教室が並ぶ校舎が、西側と東側の二棟にそれぞれ南北に伸びていました。校門の広い正面にこんもり茂っていた樫(かし)の古木は、枝を我物顔に目いっぱい広げて講堂の入口も常に隠さんばかりの勢いでした。樫の大樹を真ん中にして、校門から玄関に通じる砂利を敷き詰めた2メートル位の歩道が右に左にと分かれて伸びていました。その片脇に手入れされた季節の草花が整然と並んで、春夏秋冬絶える事なく彩りをそえて、心をなごませてくれました。冬場でも水仙がつつましく咲いていました。
 向かって左側の小道は職員玄関に、反対の右側は児童玄関へ、朝の挨拶も明るく弾んで規則正しい学校生活の始まりです。
 手前に見えている東校舎の北の端は、一階が職員室、二階はタタミを敷き詰めた和室で裁縫室と、校門を見渡せる見通しの良い場所にありました。相対する西の校舎は、一階は一年生のにぎやかなお勉強部屋、二階は図書室がありました。
 もう一つ、忘れてはならない物だったはずなのですが、幼い私にはその意味すら解らず、鬼ごっこやかくれんぼで石の忠魂碑を利用していた記憶も、今だに残っています。
 どう言う訳か、屋外の写生会には決まってここで腰かけて風景を画いたものです。見上げるばかりの大きな忠魂碑は児童玄関と門柱の中間あたりにありました。春になると見事な花を咲かせ、ピカピカの1年生を歓迎してくれた老木の桜は実に印象深く、現在でも私の心の中で季節がめぐって来ると確実に開花して、その頃を思い出させてくれるのです。工作室からも眺める事ができました。講堂の真裏に、ぶらんこと足洗い場にはさまれてどっしり根を張っていました。
 ちょっと目を閉じてそーっと昔の情景を思い浮かべてください。一つ二つと心の奥底から何かがきっと浮かんでくるはずです。友達の顔でしょうか? 先生の顔でしょうか?それとも淡い恋心を抱き胸をときめかせたクラスの女の子?・男の子?だったのでしょうか。一言でとても語りつくせない程の、心の温まる話、楽しかった話、喧嘩もしたよね、いたずらも隠れて数えきれない位やったぞ!そーっと大事にしまってあった心の宝石箱から、一つだけでも結構ですから引出しを開いてください。ぼんやりと元気印の、僕?私の明るい声が聞こえてきませんか。

旧鳴鹿村役場(『鳴鹿村誌』昭和27年頃)
 学校の校門の前に立ってちょっと校外に目を向けてみましょうか。正面に、大きい茶色をした建物と妙な格好の屋根が見えていますが、鳴鹿の役場です。
 屋根には、丸い形のトランペット形のスピーカーが4方向に突き出ていました。昼と夕方を告げるけたたましいサイレンの音も聞こえてきます。心を不安に駆り立てた火事の知らせも、やはりここからでした。(火事の合図は、サイレンの音を断続的に、間隔が短いと火元が近いと聞かされました。でもこれは定かではありません)
 校門よりほぼ一直線に幅5メートル長さ50メートル位の役場への専用道路が伸びています。左側の中央あたりには、消防車の格納舎が有り、赤いランプと助手席側からハンドルを突き出し銀色のサイレンも鈍い光を放っています。
 ポーと電車の警笛が左の方向より聞こえてきました。今、楽間の駅を永平寺行の電車が発車した所です。マッチ箱形の小型で、グリーン色と黄色のツートンカラーに塗り分けられた車内には、まばらに乗客の姿が見て取れます。
 のんびり走っていても、モーターの発する騒音たるや強烈なものでした。(僕らは、この音を、もーからん・もーからんと聞きなしをして叫んでいました)上り・下りの運転間隔はほぼ1時間で、時計を持たない僕達の時を知る唯一の手段でありました。
 もう役場の裏当たりを通過して、だんだん車輪の音も遠のいて行きました。役場の右側に電車の姿を再度目にした頃は次の鳴鹿駅の手前で豆粒大になっていました。
 学校の前には幅5メートル程の石ころの道路があり、通学道路になっていましたね。夏は水色の半ズボン、それ以外は黒の学生服、丸刈りに黒の学生帽をかぶった1年生から6年生まで元気よく通り過ぎてワイワイガヤガヤにぎやかでした。
 新しい制服の1年生も寸法の違った学生帽をきちんとかぶっていました。金色に桜の校章、中の文字は(鳴小)で、白線が2本でした。女の子はセーラー服でしたね、夏は白色の半そで、他のシーズンは紺色の長そででした。
 町村合併の祝賀行事で、提灯(ちょうちん)行列もやりましたね、勿論明るい日中でした。工作の時間に製作した、手作りのユニークなお粗末な物ではありましたが、各自の個性があふれて強烈な光を放っていたみたいです。
 はるか昔、少年・少女だったその頃に口ずさんだ歌、覚えていらっしゃいますか?私の記憶の範囲内で書いてみました。もし僅かでも皆様の心の片隅に潜んでいた記憶を思い起こしていただけたとすれば、これぞ私の本望です。


…? 一町5村手をとりて 大丸岡の諸人(もろびと)が 祝う(いおう)門出に いや榮あれ
 東に仰ぐたけくらべ たださす朝日うまし田に おさ音高く夜は明けて みさち豊かに いや榮あれ
 歌詞の意味は理解できるものではありませんでしたが、力いっぱい声をからして(旧鳴鹿村)を班に分担して提灯行列を全うしましたね。帰りに紅白の饅頭なんかもらったりして大喜びしたものです。
 もう一つ、運動会の時に応援歌で友達やクラスメートにガンバレ! ガンバレと力の限り声援を送った経験もおありだと存じます。これもついでに書いてみましょう。


くろがね溶かす夏の日も 極寒冷夏の冬の日も 鍛えし我らの鉄脚を ふるえやふるえ 我が健児
鍛える友を助けつつ 互いに鍛えしこの体 示さん我らのこの意気を ふるえやふるえ 我が健児
現在でも唄い継がれているのでしょうか?

 ほんの一端を思い浮かぶままに申し述べてきましたが、当時の小学生も今はおじいちゃん・おばあちゃんになられ、今鳴鹿小学校に通学されておられるとすれば、そのお孫さんでしょうね。この程度の文章で当時の様子を全て納得いただけるとは到底考えておりませんが、微力ながら多少なりとも幼い小学校時代にタイムスリップしていただきその情景を懐かしく偲んでいただけたとすれば感謝の一言に尽きます。更に甘えた気持ちで皆様にお願い出来ますならば、昔のあの時の空気、豊かな情操を育んでくれた小学校教育、友をいたわる広い心、その頃の感性、そしてその頃の言葉を未来ある子供達に継承していただきたいものです。
 幼児の頃につちかった、人を思いやる優しい心は消滅する事なく、生涯潜在的にいつまでも残存していると物の本で読んだ記憶があります。この物語も、はるか遠い昔を思い浮かべて僅かずつ継ぎ合わせ、どうにかお粗末ですが文章としてまとめたつもりです。全て逸話なのですが生来、勉強嫌いと怠け癖は、今も昔も何ら変わっていません。悪たれ児童の失敗談で若返って、おおいにお笑い下さい。

【序章おわり 第1章へつづく】