・このエッセイは,福井市在住の鈴木様のご厚意により掲載させていただいております。
・実話に基づいていますが,文中の登場人物はすべて仮名です。
・写真は昭和30年代のものを中心に使用しておりますが,本文との直接の関係は
 ありません。出典は特に明記されているもの以外,主として本校所蔵の写真,
 または『鳴鹿小学校百年史』より引用しています。
【あとがき】
 その数日後にも、やはり罰として肥料運びは幾度か繰り返されたが、その都度久保先生の厳格な監視のもとで作業を実行させられた事は当然の成り行きであった。

 卒業式終えて学び舎を去る際、担任であった久保先生の餞(はなむけ)の言葉の中にこんな下りだあった。

「へちまの栽培にあたり、絶えず気を配って肥料運びを自らかって出てくれた、鈴木君・下田君・平山君達は辛い作業も頑張ってやってくれた。その忍耐力には先生も頭が下がる思いがした。君達もこの精神を大いに見習うように!」

 この一言に僕達は、心底救われる思いがした。
 巣立って行く教え子の晴れやかな笑顔を前に、ホームルームで先生は最後の熱弁を振るわれた。僕らは何も好きこのんでやった訳でもなかったが、先生も教え子として悪たれ坊主に最後の華を持たせてくださったにちがいない。先生の気転のきいた粋な心使いと計らいには、何物にも代え難い師弟愛が深く込められていたように思われた。
 さすがの悪たれ坊主の三人も、この時ばかりは神妙な顔つきでじっと聞き入っていた。この時初めて見せた、よそ行きの顔がおかしくもあり、また寂しそうでもあった。

                    【 完 】